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東京高等裁判所 昭和30年(ネ)1830号 判決

控訴人 原告 李康洙

訴訟代理人 青木一男 外二名

被控訴人 被告 株式会社三井銀行

訴訟代理人 毛受信雄 外一名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し金四百三十万円及びこれに対する昭和二十六年一月八日以降完済に至るまで年六分の割合による金員を支払え、若し右請求が理由ないときは被控訴人は控訴人に対し金四百三十万円及びこれに対する昭和二十五年十二月二十八日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え、訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする旨の判決並びに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は主文第一項同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張及び証拠の提出、認否、援用は左記の外原判決の事実の部に記載してある通りであるから、ここにその記載を引用する。

控訴代理人は、(一)被控訴人は昭和二十九年一月一日その旧商号「株式会社帝国銀行」を現在の商号「株式会社三井銀行」に変更した。(二)原判決の二枚目裏二行目乃至五行目に、「株式会社千代田銀行……白地裏書をなした上」とある部分を、「株式会社千代田銀行日比谷支店の支店長振出の金額八百万円の持参人払式線引小切手一通を携え」と訂正する。(三)控訴人は被控訴銀行新橋支店の応接室に案内せられ、訴外河西から同支店得意先係長鈴木信知を紹介された際、鈴木信知に対し預金のために来訪した旨を告げた。右得意先係長の職務は預金の勧誘獲得である。(四)控訴人は本件小切手の裏面に受取人としての署名をしてこれを河西に交付した。(五)本件預金につき諾成契約たる合意は控訴人と被控訴銀行を正当に代理する権限を有つていた被控訴銀行新橋支店得意先係長鈴木信知との間になされたものであり、要物契約たる小切手の授受は控訴人と被控訴人の表見代理人たる河西慶伍との間になされたものである。(六)昭和二十六年一月七日控訴人は被控訴銀行新橋支店に赴き普通預金契約の解約を申出でた。(七)昭和二十六年一月八日金百万円の預金及びこれに対する同日までの利息については控訴人において払戻を受けた。(八)第一次的請求としては預金残額金四百三十万円及びこれに対する普通預金契約解約の日の翌日である昭和二十六年一月八日以降完済に至るまで商法所定の年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。(九)被控訴銀行は昭和二十五年十二月二十八日手形交換により本件小切手金の支払を受けた。そしてその金額の内金四百三十万円の利益は今尚被控訴人に現存する。たとえ被控訴銀行において錯誤により本件小切手金の一部を訴外東光建設株式会社の預金として取扱い、同会社へ支払つたとしても、これが取戻を請求し得べき筋合であるから、現存利益を失つたとは言えない。(十)加之被控訴人は悪意の受益者であるから、右小切手が交換支払済になつた昭和二十五年十二月二十八日以降その受けた利益に利息を附して控訴人に返還する義務がある。(十一)不法行為を原因とする請求についても被控訴人は損害発生の日である昭和二十五年十二月二十八日以降年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。(十二)原判決の六枚目裏(3) の主張事実に次の通り附加する。被控訴銀行はその新橋支店得意先係長鈴木信知により控訴人が預金のために来店したこと及び預金の目的物は本件小切手であることを知り又本件小切手の振出銀行に人を派して本件小切手は控訴人が振出交付を受け預金のため被控訴銀行に持参したものであることを知り、又銀行振出の持参人払式預金小切手に裏書することは小切手法第三十四条所定の受取を証する記載以外には意味のないものであり、銀行が振込小切手に振込人の裏書を求めることは商慣習であり、銀行と預金者との特約事項でもあり(甲第八号証の二)該受取裏書自体によつてもその小切手の所持人が控訴人であることが分明で控訴人が預金のため該小切手を振込んだことを知つていた。更に被控訴銀行は訴外東光建設株式会社が土建業者であること、同会社の被控訴銀行との取引関係は極めて緩漫で貸付金を除けば一回に金十万円以上の預入をしたことなく、而も右貸付は信用保証協会の保証に基くものであること、本件預金当時の預金残額は金千八十七円に過ぎないことが同会社との取引帳簿上明かで被控訴新橋支店の得意先係長鈴木は当時右訴外会社に赴きその業況を知り別に信用増加、事業拡張、新規工事の請負等預金の増加すべき事由が全然存在しないこと、右の実情から見て、同会社が金八百万円という巨額の融資を受けられる筈がなく、工事の注文者に非ざる控訴人から金八百万円を受ける筈がないことは被控訴銀行が知悉していた所である。前記鈴木信知は河西から新橋支店の応接室において控訴人に対し預金を勧誘している事実を告げられていたが、東光建設株式会社のため借入の交渉をしている事実は全然なかつたのであり、時恰も導入預金が頻繁に行われており、訴外天野及び同河西は金融ブローカーであるから河西が本件小切手につき金百万円を控訴人の預金に、他は東光建設株式会社の当座預金に振込むという申出に対しては当然疑念を抱き応接室にいる控訴人に対し、河西の右申出は控訴人の承知するところか否かを確かめることは銀行として預金者に対する当然の義務であるに拘らず敢てこれをしなかつたのは明かに被控訴銀行の過失である。若し被控訴銀行が控訴人に就きその意思を確認する挙に出ていたら本件詐欺行為は未然に防止せられた筈である。而して他店払の小切手は銀行振込から交換支払済に至るまで二日半を要し、被控訴銀行はその取引先全部との間の当座勘定約定書において小切手、手形等の証券による預金はその取立済に至るまでその支払をしない旨の特約をしている。然るに被控訴銀行は本件小切手受入の当日該小切手を以て振込んだ預金の払戻に応じ本件小切手の交換済入金の確認せられる日即ち預金受入の三日目にはその残額僅かに金二百二十余万円に至るまで払戻している。これは被控訴銀行と河西との特殊関係を疑わしめるものである。(十三)控訴人は被控訴銀行に対し昭和二十六年一月七日控訴人の普通預金八百万円を通知預金に変更方を申出でたところ、右申出により被控訴人は同月十日金百二十万円を控訴人の通知預金としたが、これは被控訴人が東光建設株式会社から金百二十万円の小切手の振出交付を受け同金額を同会社の預金額から落しこれを控訴人の通知預金としたものであつて、右小切手は控訴人が右会社から交付を受けこれを通知預金の目的として被控訴銀行に引渡したものではない。控訴人が右通知預金の払出を受けたことは認める。そして控訴人が「被控訴銀行の協力により訴外河西より金二百七十万円を回収した」(原判決の四枚目表八、九行目)という金二百七十万円中には右通知預金の払出を受けた金額を包含するものであると陳述し、

被控訴代理人は、(一)被控訴人の商号変更の事実は認める。(二)控訴人と被控訴人との間の預金契約(金額百万円)は普通預金契約であつて、普通預金契約は預金者が何時でも解約できること、控訴人が昭和二十六年一月七日これが解約の意思表示をしたこと、得意先係長の職務は預金の勧誘獲得であること及び被控訴銀行が昭和二十五年十二月二十八日手形交換により本件小切手金の支払を受けたことはいずれも認める。(三)被控訴銀行は訴外東光建設株式会社振出被控訴銀行宛の昭和二十五年十二月二十七日附金額八十万円、同日附金額二百万円、同月二十八日附金額百万円、同月二十九日附金額百万円及び同月三十日附金額百万円の各小切手を支払うことにより同会社の当座預金の内合計金五百八十万円を払戻し、その後控訴人の申出により東光建設株式会社振出被控訴銀行宛の昭和二十六年一月十日附金額百二十万円の小切手を同日控訴人の被控訴銀行に対する通知預金に振替え(これにより東光建設株式会社の当座預金残額百二十万円は払出されたことになる)その後間もなく被控訴人は控訴人に右通知預金を払出した。そして控訴人の被控訴銀行に対する金百万円の普通預金が既に払戻済であることは控訴人主張の通りである。従つて仮に被控訴人が不当利得をしたとしても、利得は現存せず且つ固より善意である。(四)控訴人の前記(十二)の主張に対し、本件小切手は持参人払式のものでその所持人は東光建設株式会社であり、同会社が自己の当座入金通帳と本件小切手とを以て被控訴銀行に預金の申入をしたのであるから、預金契約七百万円については同会社と被控訴人との間においてのみ成立し、控訴人はこの預金契約とは全く関係がない。尚控訴人主張の如く「控訴人が預金のために被控訴銀行に小切手を持参したこと」とか「控訴人が小切手の所持人であり預金のための振込人であること」を被控訴銀行の鈴木信知が知つていたという事実は全くない。又当時右会社と被控訴銀行との取引関係がたとえ控訴人主張の如く極めて緩漫で本件預金当時の預金残額が僅少であつたとしても、その数日前から同会社から被控訴銀行に相当まとまつた預金をする旨を予告せられており、当日「八百万円を借入れたから預金手続をしてくれ」と言われて本件小切手を当座入金帳と共に預金のため提出を受けたのであるから、これにより預金受入をすることは銀行業者として極めて当然のことであり、かかる点について過失を云為する控訴人の主張は全く根拠がない。加之預金者が自己の当座預金口座に小切手を振込んだ場合には該小切手は現金同様の作用を営み、それは直ちに預金者の預金となり預金を受けた銀行はそれが持参人払式小切手の場合にはその引渡によつて該小切手の譲渡を受け、その所持人となるのである。そして銀行が該小切手を手形交換所において呈示するときは自己の小切手としてその支払を求めるものなのである。そして該小切手が不渡となつた場合、小切手の権利者としてその小切手債務者に償還請求をするか或は直ちに該小切手を預金者に返戻して代り金の請求をするかは銀行の選択に基いて決すべきものである。右に述べる通り小切手は現金同様の作用を営み、銀行がその所持人となるのであるから、被控訴銀行が本件小切手受入の当日から該小切手を以てした預金の払出に応じることには何の不思議はないし、又かかる措置をすることについて銀行に過失ありとする控訴人の主張は架空論に過ぎない。いわんや被控訴人は本件小切手はその振出銀行たる千代田銀行日比谷支店が振出したものであることを同支店について調査し特にこれを確認しているのであるから、これを現金同様視して預金として受入れ且つその当日一部の払戻しに応じたことに被控訴人の過失ありとする所論は全く失当である。要するに本件預金は控訴人がしたものでないことはもとより、本件小切手は控訴人から交付されたものでない全く東光建設株式会社がしたものである。この事実は被控訴銀行新橋支店の応接室に河西外五、六名の者と同席していた控訴人が鈴木と名刺の交換をしたのみで何の用事で来たのかも告げず、又控訴人自ら鈴木その他被控訴銀行の使用人に対して預金の申込をした証拠が全然ないことに徴しても頗る明白である。又当時所謂導入預金が頻繁に行われていたと控訴人は主張するが、被控訴銀行についてかかる導入預金の行われていた事実は全くないと陳述した。

証拠として新たに

控訴代理人は甲第五乃至第七号証第八号証の一、二第九乃至第十六号証を提出し(第七号証第八号証の一、二第十五、十六号証はいずれも写で)、甲第五号証の裏面中控訴人の署名を除きその余の部分の記載は控訴人の知らないものである。被控訴銀行と東光建設株式会社との間の当座預金契約の内容は甲第十四号証の記載と同一であると述べ、当審における証人大山八郎同鈴木信知(第二回)の各証言及び控訴本人尋問の結果を援用し、乙第五乃至第十号証の各一、二の成立を認め、乙第二号証第四号証の一、三を利益に援用し、原審鑑定人天野達の鑑定の結果は援用しないと述べ、

被控訴代理人は乙第五乃至第十号証の各一、二を提出し、乙第十号証の二の汎韓貿易株式会社は控訴人の経営に係るものであると述べ、当審証人鈴木信知の第一回証言を援用し、甲第五、六号証第九乃至第十四号証の成立を認め、甲第五号証の裏面中「東光建設」という文字は被控訴銀行において記載したものであり、その上部の横枠のゴム印とその内部の「依頼人李康洙」とある横書の部分は株式会社千代田銀行(現在は株式会社三菱銀行)日比谷支店が右小切手受入後に押捺又は記載したものである。被控訴銀行と東光建設株式会社との間の当座預金契約の内容が甲第十四号証の記載と同一であることは認めると述べ、甲第七号証第八号証の一、二第十五、第十六号証の原本の存在とその成立を認め、原審鑑定人井上勝馬の鑑定の結果はその全部を援用すると述べた。

理由

成立に争のない甲第一、二号証第四号証の一乃至四、乙第一号証の一乃至三、第三号証第四号証の一、三、六原本の存在とその成立に争のない甲第七、第十五、十六号証裏面の「東光建設」という記載及びその上部の横枠のゴム印とその内部の「依頼人李康洙」とある横書の部分を除き成立に争のない甲第五号証、成立に争のない乙第二号証(但し「預り金高」欄及び「差引残高」欄にある各八百万円の記載は初め百万円と記載せられたものが改竄せられたものであることは弁論の全趣旨に徴し当事者間に争がない)原審証人藤井誠一同伊集院重正原審並びに当審証人大山八郎同鈴木信知(当審第一、二回)の各証言(証人大山八郎の当審における証言中「昭和二十六年」とあるは誤であつて、「昭和二十五年」が正当であると認める)及び原審並びに当審における控訴本人尋問の結果を綜合するときは、控訴人は昭和二十五年十二月下旬訴外一藤木重治等から訴外藤井誠一を介して、「知人に銀行から融資を受けたがつている者があるが、年末を控えて銀行側資金不足のため融資を受けかねている。若し他人名義にても銀行預金を得られれば、これを裏打ちとして融資を受けることができるから、控訴人名義を以て銀行預金をせられたく、この場合には被融資者から謝礼として預金額の八分に相当する金員を提供する」旨の申入があつたので、控訴人は右申入に応じ、結局金八百万円の銀行預金をすることとし、同月二十七日自己の取引銀行である株式会社千代田銀行日比谷支店の支店長振出の金額八百万円の持参人払式線引小切手一通を携え、前記一藤木及び藤井の両名と同道して被控訴銀行(被控訴人の旧商号は「株式会社帝国銀行」であり、昭和二十九年一月一日これを現在の商号「株式会社三井銀行」に変更したことは当事者間に争がない)新橋支店に赴いたところ、同支店玄関先において訴外河西慶伍外一名の出迎えを受けて応接室に案内せられ、同所において右河西より同支店の得意先係長訴外鈴木信知を紹介せられたこと、右河西慶伍は右鈴木信知に対し「席を外してくれ」と云つて鈴木を退席せしめ、控訴人に対しては自己が銀行の職員であるかの如く装い、且つ河西と気脈を通じていた一藤木は控訴人に対し河西が同支店の支店長代理であると告げたので、控訴人は河西がその地位に在るものと信じ、普通預金とするため前記小切手を同人に交付したところ、同人はこれを携えて自席にいる前記鈴木信知の許に到り、今控訴人から金八百万円借りたから内金七百万円をかねて同支店と取引ある訴外東光建設株式会社の口座に振込まれたく、残額金百万円を控訴人の新規普通預金とせられたいと申出で右小切手を鈴木に交付したので、鈴木はこれを承諾し、係員をして所要の手続を経て、内金七百万円を東光建設株式会社の当座預金口座に振込ましめ、残額金百万円については新規に控訴人の普通預金口座を設け控訴人名義の金額百万円の預金受入の記載ある普通預金通帳(改竄前の乙第二号証)を発行せしめこれを河西に交付したところ、河西は同支店の待合室に備付けてあつたペンとインクを使用して右百万円の記載を八百万円と改竄した上これを控訴人に交付し、控訴人は改竄に気付かずしてこれを受取り、尚同日一藤木の手を経て謝礼金六十四万円を受領したこと及びその後昭和二十六年一月七日(この日時については当事者間に争がない)控訴人が被控訴銀行新橋支店に赴き前記普通預金を通知預金に変更すべきことを求めるに及んで前記普通預金通帳の記載が河西により改竄せられたものであることを発見したことを認定することができる。

控訴人は、控訴人と被控訴人との間に金八百万円の普通預金契約が成立した。詳説すれば、その預金につき諾成契約たる合意は控訴人と被控訴銀行を正当に代理する権限を有つていた被控訴銀行新橋支店得意先係長鈴木信知との間になされたものであり、要物契約たる小切手の授受は控訴人と被控訴人の表見代理人たる河西慶伍との間になされたものであると主張する。しかし原審証人藤井誠一の証言、当審における控訴本人尋問の結果その他控訴人の提出援用にかかる凡ての証拠を以てしても控訴人と鈴木信知との間に控訴人主張のような諾成契約たる合意が成立したことを認めるに足りない。原審証人鈴木信知に対する尋問調書には、同人の供述として「控訴人と私(鈴木信知)が名刺を交換した時に控訴人から預金に来たという事は聞いて居ります」及び「控訴人が八百万円預金に来たという事は私も聞いて知つていた訳であります」という記載があるけれども、当審証人鈴木信知の第一、二回証言に徴し右調書の記載は真実でないと認める。かえつて前認定の通り鈴木信知は河西慶伍から「席を外してくれ」と云われて応接室から退出し自席におつた事実と前記甲第七、十六号証当審証人鈴木信知の第一、二回証言及び原審における控訴本人尋問の結果を綜合するときは、控訴人と鈴木信知との間においては直接預金について何等話合をしなかつたことが明らかである。次に前記甲第四号証の一、二、第十六号証乙第四号証の一及び原審並びに当審(第二回)証人鈴木信知の証言によれば、当時被控訴銀行新橋支店の得意先係長であつた鈴木信知は知合の河西慶伍外一名からの依頼があつたので同支店の応接室を一時使用することを承諾し、かくて右河西等は前認定の通り控訴人等をその応接室に案内したことを認めることができる。そして冒頭に認定した事実と右証人鈴木信知の証言によれば、河西慶伍が応接室と鈴木信知の自席との間を数回往復したことは推測に難くないけれども、控訴人が主張するように、河西が被控訴銀行の行員同様に新橋支店内部を自由に歩き又は応接室と営業事務室との間を盛んに往復した事実はこれを認めるに足る証拠がない。河西が控訴人に対し自己が銀行の職員であるかの如く装つたことは前認定の通りであるけれども、それは控訴人又はその同行者に対する関係であつて鈴木信知その他同支店係員の関する所ではない。小切手の受渡と預金通帳の受渡が河西を介して行われたことも亦前認定の通りであり、前記甲第一号証第四号証の一、二、乙第四号証の一、原審証人藤井誠一同鈴木信知の各証言及び原審並びに当審における控訴本人尋問の結果によれば、新規預金の申込に必要な印鑑届も鈴木がその用紙を河西に交付し河西がこれに控訴人から所要の記載押印を得て鈴木に交付したものであることを認め得るけれども、右は鈴木その他同支店の係員が河西に委任又は依頼してそうさせたのではなくて、同支店の係員をしてなるべく控訴人に接近せしめまいとする河西の謀略に出でたものであることは冒頭認定の事実から推知することができる。以上の事実からは、被控訴人が控訴人その他の第三者に対し河西が新橋支店の預金業務に関する代理権を有する旨を表示したものとは到底認め難い。乃ち控訴人と被控訴人との間に金八百万円の普通預金契約が成立したという控訴人の主張は理由がない。尤も控訴人のために被控訴人との間に金百万円の普通預金契約が成立し、それは既に被控訴人から控訴人に払戻済であることは後に説明する通りである。

次に控訴人の予備的請求の一つである不当利得返還請求について審按する。前記甲第二号証第四号証の一乃至三、乙第一号証の一乃至三、第四号証の三及び原審並びに当審証人大山八郎同鈴木信知(当審第二回)の各証言を綜合するときは、訴外東光建設株式会社は昭和二十五年九月以降被控訴銀行新橋支店と当座預金取引があり、前記河西慶伍はその頃から右会社の承諾を得て時々その事務所の一部を使用していたが、同年十二月二十日過同会社に対し自己が預金をするについて同会社の被控訴銀行新橋支店における当座預金口座を利用させてくれと申入れたところ、同会社においては銀行に対する関係で会社の預金の実績が上ることでもあり会社としても有利であると考えて右河西の申入を承諾し、預金手続に必要な当座勘定入金票綴込帳を河西に交付したこと及び河西が前認定の、昭和二十五年十二月二十七日被控訴銀行新橋支店において株式会社千代田銀行日比谷支店長振出の金額八百万円の持参人払式線引小切手を鈴木信知に交付し、内金七百万円を東光建設株式会社の当座預金口座に振込むべく残額金百万円を控訴人の新規普通預金とすべきことを申出でた際には、同時に右会社から受取り持参した当座勘定入金票綴込帳をも鈴木に提出し、鈴木は河西を同会社の代理人として右小切手を受入れた事実を認定することができるのであつて、右事実によれば、東光建設株式会社は被控訴銀行新橋支店に対する関係においては河西に預金の代理権を付与したものであり、同支店は右会社の代理人である河西から前記小切手の譲渡を受けたものと認めるのが相当である。原審証人大山八郎の証言中には、「東光建設株式会社としては河西の預け入れた金について権利者となろうとする意思は全然なかつた」とか、「会社と河西との間では会社の金と河西の納めた金とははつきり区別をつけていた」という供述部分があるけれども、右は東光建設と河西との内部関係を云つたものと解すべきであるから、かかる供述は毫も前認定を妨げるものではない。本理由の冒頭において認定した事実によれば、河西は控訴人から本件小切手を騙取したものに外ならない。そして控訴人から見れば法律行為の要素に錯誤があつたものと云うことができるから、河西又は東光建設株式会社は該小切手を取得するに由なく、結局被控訴人は無権利者から小切手を譲受けたこととなる。しかし被控訴人が悪意又は重大なる過失によりこれを譲受けたのでなければ、小切手法第二十一条の規定によりこれを返還する義務なく所謂善意取得者となる。被控訴人の悪意についてはこれを認めるに足る証拠がない。被控訴人に重大なる過失があつたかどうかについては次の諸点が問題になる。第一に、一通の小切手を以て同時に別異の人の預金口座に振込むことは銀行業務上異例の取扱に属するか。原審鑑定人井上勝馬の鑑定の結果によれば、銀行が右のような申出を受けたときは、これを拒絶する理由がなく、むしろ、又預金増強の関係上、喜んでこれを応諾するものであることを認めることができる。第二に、前記甲第五号証及び原審並びに当審における控訴本人尋問の結果によれば、本件小切手は裏面に控訴人の署名があり、それは控訴人が小切手を河西に交付する前にしたものであることを認めることができる。この署名は小切手法に所謂裏書でないことは控訴人の自ら主張する所であつて、控訴人は右署名は小切手法第三十四条所定の受取を証する記載であると主張する。しかし原審鑑定人井上勝馬の鑑定の結果によれば、他店小切手の受入銀行(本件においては被控訴銀行)は支払人ではない(本件小切手が自己宛であることは甲第五号証により明かである)から、右控訴人の署名を以て受取を証する記載と見るのは正当でないと云わねばならぬ。右鑑定人の鑑定の結果によれば、一般持参人払式の他店小切手を入金として受入れる場合は、小切手の裏面に、なんら入金者の記載がない場合は、銀行の方で係員が入金者の商号又は氏名を小切手に記載して、不渡の場合に備えるのであるが、本件の場合前記控訴人の署名は、銀行側でするか入金者がするかの差異はあるにしても、右商号又は氏名の記載と同じ意味を有つものであることを看取することができる。成立に争のない甲第四号証の一、二及び原審証人鈴木信知、当審証人大山八郎の各証言によれば、鈴木信知と河西慶伍とは鈴木が得意先係長として東光建設株式会社を往訪した際同所で知合つた間柄であり、河西は前認定の経過により鈴木に対し右会社の代理人として、控訴人から金八百万円借りたから内金七百万円を右会社の当座預金口座に振込まれたく、残額金百万円を控訴人の新規普通預金とせられたいと申出で本件小切手を鈴木に交付したのであるから、鈴木が右申出は河西と控訴人との間に完全な諒解が成立した結果であると信じたことは看易い道理であつて、本件小切手の裏面に控訴人の署名あることも敢て異としなかつたものといえる。原本の存在とその成立に争のない甲第八号証の一、二によれば、被控訴銀行は当座預金取引をする場合、取引先に対し入金の小切手、証券類には裏書をされたい旨の希望を表明していることを認め得るけれども、右にいう裏書とはさきに説明した小切手の裏面になされる入金者の商号又は氏名の記載と同じ意味を有つに過ぎないものというべく、小切手の受入前にその記載がなくとも(甲第五号証の本件小切手の裏面に「東光建設」とある文字は被控訴銀行において記載したものであることは、被控訴人の自ら主張する所である)、被控訴人の権利取得には消長を及ぼさない。要するに被控訴銀行新橋支店において裏面に控訴人の署名ある本件小切手を東光建設株式会社の権利に属するものと信じて取得したことにつき過失の責むべきものはない。第三に、東光建設株式会社は昭和二十五年九月以降被控訴銀行新橋支店と当座預金取引があつたことは前認定の通りであるところ、成立に争のない甲第二、三号証及び原審並びに当審証人大山八郎同鈴木信知(当審第二回)の各証言によれば、右支店の取引先の中で東光建設株式会社は預金面においては下位の下位に属していたこと、即ち同会社に対する貸付限度額は信用保証協会の保証があつて金二十万円であり、一回の預入金額は最高十万円内外を超えず、残高の最高額もほぼ同金額であり、昭和二十五年十二月二十七日現在の残高は金千八十七円に過ぎなかつたこと及びこれらの事実は鈴木信知が知つており且つその頃同会社において新規工事を請負うとか事業を拡張するとか特に会社の信用を増し預金を増加させるような事由が発生したことは鈴木信知において聞知していなかつたことを認めることができる。控訴人は、同会社の状態が右のようであるなら到底七百万円というような多額の預金をなし得ないことが判つていたのであるから、河西の申入に対して鈴木は当然疑念を抱くべきであると主張する。しかし得意先係長である鈴木信知の職務は預金の勧誘獲得であることは当事者間に争なく、得意先係長ならずとも銀行が預金吸収に意を用いるのは当然であつて、銀行が預金を受入れる場合には貸付の場合とは異り、預金者の資産調査をするものではないから、鈴木が河西から、前認定の通り、控訴人から金八百万円借りたから預金手続をしてくれと云われてその言を信じ預金手続をしたことは、鈴木が東光建設との従来の取引内容を知つていたことを考慮に入れてもなお鈴木が取引上必要な注意を怠つたものとは云い難い。第四に、鈴木信知が自席において河西慶伍から預金の申出を受け本件小切手の交付を受けた際応接室にいた控訴人に何事をも確めなかつたことは被控訴人の認めるところである。しかし鈴木信知は河西慶伍から「席を外してくれ」と云つて応接室から退出することを求められたことは既に認定した通りであつて、原審証人鈴木信知の証言によれば、右のように応接室から退出することを求められたので鈴木は応接室にいる控訴人に近ずくことを遠慮し、預金手続が済んでからも控訴人の所へ挨拶に行くことを差控えたことを認め得べく、銀行員の客に対する儀礼からも右鈴木の措置は是認し得ることであつて、鈴木が控訴人に何事をも確めなかつたことを以てその過失と判定すべきではない。甲第六、九乃至十三号証、原審鑑定人井上勝馬の鑑定の結果を以てしては右判定を左右するに足りない。第五に、成立に争のない甲第十四号証及び被控訴銀行と東光建設株式会社との間の当座預金契約の内容が甲第十四号証の記載と同一であることの当事者間争ない事実によれば、被控訴銀行新橋支店と東光建設株式会社との間の当座預金契約には、小切手を以てする預入はその取立が済むまでは払出をしない旨の約定あることを認めるに足り、被控訴銀行が昭和二十五年十二月二十八日手形交換により本件小切手の支払を受けたことは当事者間に争なきところ、前記甲第二号証第四号証の一乃至三、成立に争のない乙第六乃至第九号証の各一、二及び原審並びに当審証人大山八郎同鈴木信知(当審第二回)の各証言によれば、被控訴人は右小切手金の支払を受ける日の前日即ち該小切手を受入れた同月二十七日に早くも東光建設株式会社の請を容れ同会社振出の小切手を支払うことにより金八十万円及び金二百万円の二口を払出し(本件小切手の振出人である千代田銀行日比谷支店に就き調査した結果該小切手が真正であることを確めた上)、ついで翌二十八日金百万円を、その翌二十九日金百万円を同様払出した事実を認めることができる。しかし原審鑑定人井上勝馬の鑑定の結果によれば、銀行が当座取引先の預金口座に他行払小切手を以て預金を受入れた場合、その小切手が渡り済の上でないと、その分についての現金の払出しに応じないのが通常であるけれども、日銀払の小切手や銀行振出小切手の場合等全然不渡になる懸念のない小切手なれば、これを見合いとして現金の払出しに応ずる場合もあり得ることが明かであつて、これを本件について見ると、被控訴銀行新橋支店と東光建設株式会社との間の当座預金契約における前記約定は、右鑑定にいう所の通常の場合を見ているのであつて、被控訴人が前認定の通り東光建設の請を容れ小切手の支払ある前に払出をすることも、その小切手が本件の場合のように銀行振出小切手であつて不渡になる懸念のないものであるときは、異例を以て目すべきでないということができる。従つて右事実あるの故を以て被控訴銀行と河西との間に特殊関係あることを疑わしめるという控訴人の主張は採用し難い。以上第一乃至第五に説明した通り被控訴人が本件小切手を譲受けるにつき重大なる過失あることもこれを認め得ないから、被控訴人は適法に該小切手を取得したものである。そして東光建設株式会社の代理人河西の申出により内金七百万円を同会社の当座預金口座に受入れたのであるから、被控訴人が法律上の原因なくして本件小切手を取得したという控訴人の主張は理由がない。加之昭和二十六年一月八日控訴人が金百万円の預金及びこれに対する同日までの利息を被控訴人から払戻を受けた事実は当事者間に争がないから、控訴人は、河西が被控訴人との間において控訴人のために締結した前記普通預金契約を追認してこれが払戻を受けたものと認めるのが相当である。そして前記甲第二号証第四号証の一、三、成立に争のない乙第五、十号証の各一、二によれば、被控訴人は東光建設株式会社に払出した前記四口合計金四百八十万円の外昭和二十五年十二月三十日金百万円を同様の方法により同会社に払出し、河西の犯罪発覚の後昭和二十六年一月十日同会社の承諾を得て残額百二十万円を控訴人の被控訴銀行に対する通知預金に振替えた事実を認めることができ、その後間もなく被控訴人が控訴人に右通知預金を払出した事実は当事者間に争がないから、被控訴人には現存利益がない。被控訴人が東光建設株式会社に対して、控訴人主張のような取戻請求権を有することは肯認し難いことであり、又被控訴人が悪意の受益者であるということは考えられないことである。原審証人伊集院重正の証言その他控訴人の全立証を以てしても上記認定を左右するに足りない。されば右いずれの理由からしても控訴人の不当利得の請求は理由がない。

控訴人は更に予備的請求として不法行為による損害賠償請求権を主張するから、これについて審按する。前記の通り、被控訴人は悪意又は重大なる過失なくして本件小切手を譲受け、所謂小切手の善意取得者となつたのであるから、この点につき被控訴人に不法行為上の責任がないことは多言を要しない。本件小切手は河西慶伍が控訴人から騙取したものである。そしてその不法行為は通俗的にいえば被控訴銀行新橋支店を舞台として行われた。この不法行為に関して鈴木信知その他同支店の係員に不法行為上の責任があるかどうかが本論の要点である。(一)原判決の五枚目裏から六枚目表に亘る(1) の主張について。銀行がその得意先関係の者に対し応接室の使用を承諾することは、顧客優遇の営業方針からいつて当然の措置である。この場合右外来者に特に不審のかどの認められない限り銀行側として干渉的態度を避けることはむしろ社交儀礼の問題に属する。又右外来者が所用のため営業事務室内に立入ることがあつても特にこれを阻止すべき理由がない。本件において河西慶伍は応接室と鈴木信知の自席との間を数回往復した事実はあるが、それ以上控訴人が他の個処において主張するように、新橋支店内部を自由に歩き又は応接室と営業事務室との間を盛んに往復したというような事実を認めるに足る証拠がないことは既に説明した通りであるばかりでなく、鈴木信知その他被控訴銀行新橋支店の職員が河西等の不正を知りながらこれを放置したとか又は不注意によつて河西等の不正に気づかなかつたことは控訴人の全立証によつてもこれを認めるに足りない。(二)原判決の六枚目記載の(2) の主張について。既に説明した通り、鈴木信知は河西慶伍から「席を外してくれ」と云つて応接室から退出することを求められたので、鈴木は自席に退き、応接室にいる控訴人に近ずくことを遠慮した。銀行の客が行員に「席を外してくれ」と云つたからとて客の間で不正が行われるかも知れないと速断することは相当でないのであつて、行員としては客の要望に副うべきものである。本件におけるが如く河西と控訴人が相談の上鈴木と折衝するものと認められる場合に、鈴木が河西をさし措いて直接控訴人にはかる義務はない。預金が多額の場合であつても同様である。本件において小切手の受渡、預金通帳の受渡等は河西を介して行われたのであるが、それは鈴木が河西をしてなさしめたものでないことはさきに説明した通りである。(三)原判決の七枚目表記載の(4) について。大口預金の新規契約者がある場合に銀行幹部が挨拶に出ることは通常の慣例であるが、右は社交儀礼の問題であつて、それをしなくても法律上の責任にまで発展するものではない。まして本件の場合は客の側においてそれを喜ばない事情があつたことは屡次説明した通りである。(四)故意、過失に関する控訴人のその余の主張は原判決の六枚目裏から七枚目表に亘る(3) の主張と本判決の「事実」に摘示した(十二)の主張である。控訴人は、被控訴銀行がその新橋支店得意先係長鈴木信知により控訴人が預金のために来店したこと及び預金の目的物は本件小切手であることを知つていたと主張する。按ずるに、控訴人が預金の用件で来店したであろうことは鈴木信知において直ちに察知したであろうし、本件小切手が本来控訴人の権利に属したことは、その裏面に控訴人の署名あることの一事によつても鈴木はこれを了知したに違ない。しかし控訴人と鈴木信知との間においては直接預金について何等話合をしなかつたことはさきに認定した通りであり、鈴木は河西から、今控訴人から金八百万円借りたから、内金七百万円を東光建設の当座預金口座に振込まれたく、残額金百万円を控訴人の新規普通預金とせられたいとの申出を受け本件小切手を交付せられたので、鈴木が右申出は河西と控訴人との間に完全な諒解が成立した結果であると信じたことも亦さきに説明した通りであるから、仮に来店の際の控訴人の意向が鈴木信知に判つていたとしても、その後控訴人と河西その他の同行者との話合により右河西の申出のように話がきまつたものと受取るのは当然であつて、この点について鈴木を責むべき何物もない。その余の控訴人の主張については前段の不当利得返還請求について判示した通りである。尤も前段においては被控訴人が東光建設の代理人河西から本件小切手を譲受けるについて重大なる過失があつたか否かの観点から説明したものであるが、不法行為上の過失があつたか否かの観点からしても前段におけると同じ理由から鈴木信知その他被控訴銀行新橋支店の係員に軽過失(通常の過失)もなかつたものと判断する。従つて不法行為を原因とする控訴人の請求は理由がない。

最後に控訴人は、小切手法第三十八条第五項の規定により被控訴人に損害賠償を請求するけれども、さきに説明した通り被控訴人はその取引先である東光建設株式会社の代理人河西慶伍から本件小切手を譲受取得したものであるから、右控訴人の請求は理由がない。

以上の説明によつて明かな通り控訴人の請求は凡て理由がない。原判決が控訴人の請求を凡て棄却したのは相当であるから、民事訴訟法第三百八十四条の規定により本件控訴は棄却すべく、訴訟費用の負担につき同法第九十五条第八十九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判長判事 奥田嘉治 判事 菊池庚子三 判事 岸上康夫)

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